“ご縁”のお話(その1)

チェルノブイリ原子力発電所

PHOTO:事故後のチェルノブイリ原発4号炉

“世間はご縁で回る”、あるいは“縁あって巡り合う”などとよく言われます。社会や人生というのは、人と人の出会いや交流によって成り立っているという意味なのでしょう。私も半世紀近い仕事を通じて、ご縁の積み重ねを実感してきました。読者の皆さんも同じような経験をされていることでしょう。個人的なことで大変恐縮ですが、比較的最近の二つの事例で“ご縁”の大切さを紹介したいと思います。そもそも”ご縁“の意味は、広辞苑によれば、ゆかりや関係ということで、いいとも悪いとも書いていません。しかし、前向きな関係、ありがたい関係を指すニュアンスが強く、ポジティブな印象を持つ言葉です。

2011年の5月頃だった記憶がありますが、ウクライナに大使として赴任しないかという話がありました。当時、3か月前に母を亡くし、一人になった父を生活できるようにする必要があり、母の入院や葬儀、父の入る施設や病院の手配などで、同年1月から毎週2回は実家の大阪と東京を往復していました。気持ちに余裕がなく、追い立てられ気味で、ウクライナのことに心は動きませんでした。6月上旬に父も逝き、葬儀も済んだ下旬になって、漸くウクライナをどうするか、考えねばならなくなりました。まず思ったのは“何故ウクライナか?”ということです。実はその説明は全くなかったのです。頭に浮かんできたのは、25年前の出来事でした。

私は1985年の夏から1989年春まで、米国ワシントンDCの日本大使館の書記官を務めました。主に原子力を担当するアタッシェでした。当時の在米大には、大使以下日本から約100名の職員(外交官)が赴任し、ほぼ同数のローカルスタッフがいましたが、原子力担当は私と日本の専門調査員の二人でした。

1986年4月26日にウクライナのチェルノブイリ原発4号炉で大事故が発生しました。当時はまだ旧ソ連の時代で、改革派のゴルバチョフが共産党書記長の地位にいましたが、旧ソ連からやっと事故情報が出てきたのは、3日後の4月29日になってからです。“旧ソ連で何かが起こっている”と最初に察知したのは、28日に異常な放射能を検知したスウェーデンの観測所でした。日本では中曽根康弘総理(当時)の下で、5月4日と5日の東京G7サミット開催が迫っており、私は大使館の幹部から直々に「総理が事故に大きな関心を持たれている」ので、情報収集に最善を尽くせと指示を受けました。29日は昭和天皇の誕生日で、大使公邸ではお祝いの式典とレセプションが開催されましたが、私は事故情報を求めて次々と招待客に接触しました。当時の冷戦下の世界情勢では、情報で頼りになるのは西側では米国のみのような状態です。翌30日からの一週間は、ワシントン市内を走り回り、朝から晩まで米国関係省庁等とのやり取りで過酷な忙しさになりました。

米国がチェルノブイリ事故をどうとらえ、旧ソ連のその責任をどう考えるかは、東京サミットのとりまとめに大きな影響を与えることが分かっており、事故情報の詳細とともに米国の考えを引き出すことが喫緊の任務でした。レーガン大統領(当時)一行は、訪日前にインドネシアを訪問中でホワイトハウスがジャカルタに移動したような状況です。国務省担当官はジャカルタとも何度も連絡をとり、サミット直前になって漸く米国の考えを教えてくれました。それを東京に伝えると大変喜ばれ、東京サミットでのチェルノブイリ特別宣言の採択に至り、それを受けて翌年までには原発事故早期通報条約及び緊急援助条約の二つの多国間国際条約が成立しました。

2011年3月11日に東日本大震災が発生し、福島原発で未曽有の大事故が起こったことは読者の皆様もよくご存じのことです。私がウクライナ行きの打診を受けた5月頃は、すでに福島地域の“事故後対策”にどう取り組むかが国家的な課題となり、チェルノブイリ事故の経験に学び、その教訓を福島の対策にも生かすことが必要だとの議論が起こっていました。私はワシントン時代の経験に鑑み、チェルノブイリと福島の協力関係を築くことが自分の役割か、と思うようになり、チェルノブイリとの“ご縁”を想起し、ウクライナ行きを決断しました。ワシントン時代に、チェルノブイリの事故情報を求めて走り回っていた頃には、想像すらできないことでした。

2011年10月に首都キエフに赴任後、約3年間に日本の各界から来訪したチェルノブイリ調査団は50余に上り、それを後押しした政府間の日本―ウクライナ原発事故後協力協定も2012年4月に締結されました。外務(2回)、復興、経産各大臣や文科(2回)、環境の各副大臣の来訪もあり、私のチェルノブイリ事故炉の訪問も4回に上りました。赴任中の最後の一年間はいわゆるウクライナ危機が発生し、ロシアによるクリミア武力併合など、安全保障、国際秩序、民主主義を巡る苛烈な国際政治の対立に遭遇し、予期せぬことながら得難い経験となりました。一方、過酷な原発事故を経験したウクライナと日本の間では、世界の原子力安全の向上に寄与すべきは両国の責任だとの認識が共有され、その結果、チェルノブイリ福島の協力は、お互いに誠意をもって、前向きでオープンな協力に発展しました。そして、その成果は福島の事故後対策にしっかり生かされたのです。

ワシントンでチェルノブイリの事故情報を追っかけていた若者が、その“ご縁”で、福島事故をきっかけに、25年後にチェルノブイリ事故炉の現場に立つことになったのです。

巨大な新シェルター

現在のチェルノブイリ原発には巨大な新シェルターが覆いかぶさっている。
提供:European Bank for Reconstruction and Development

(その2)に続く

坂田 東一

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